信仰告白

 

希望の教会 6重の福音

1.罪のゆるし

罪ゆるされ、全く新しく生まれ変わり、神と人と和解して平安な人生がスタートします。

2.病や痛みと悲しみのいやし

 イエス・キリストの十字架と復活により、イエスを信じる者に神のいやしがおとずれるようになったのです。神はあなたをどんな病からも解放することができるお方です。

3.祝福の人生、人生諸問題の解決 

イエス・キリストは私たち人類のすべての呪いを身代わりに十字架で受けてくださったので、信じる者は呪いから解放され、祝福の人生に変えられるのです。人生諸問題に解決できる道をイエスは開いてくださいました。

4.勝利の人生

私たちの生活の中には様々な束縛があります。イエス・キリストの十字架の愛は、すべての束縛やわずらいから私たちを解放してくださいます。

5.神の命に満たされる

 神は日常どんな小さな問題でも、共にいて、直接具体的に関わって下さり、私たちを導いて下さるのです。神の霊が私たちを満たし、清め、愛と力を注いで下さり、プラス肯定的に生きる活力を与えて下さいます。

6.死に打ち勝ち、永遠の命が与えられる

 私たちの中に神の命が注がれているので、たとえ肉体が死んでも、永遠に生きるのです。天国はあなたのものです。


 信仰告白


一 聖書
一 旧新約聖書六十六巻は、神から人間に与えられた啓示であり、それは、イエス・キリストに
 よつて成し遂げられた私たちの救いについて記しているもので、私たちが救いについて知るに
 は、これ以外にはありません(テモテ2  三・一五-一六)。
二 聖書は、聖書記者たちがそれぞれの書物を記した時に、神が十分で完全な霊感の働きによっ
 て導かれたものですから(テモテ2  三・一六、ペテロ2  一・二O-二一)、私たちの救い
 の啓示として全く誤りがなく、神の権威を持った書物です。ですから、聖書は私だちの信仰と
 生活上における唯一の基準です。
三 私たちが、聖書を神の言葉と信じ、聖書に服従するのは、聖書の本当の著者が神であるから
 で、つまり神の権威に服従することにほかなりません。ですから、教会も個々のクリスチャン
 も、この権威を持っている六十六巻の聖書だけを、神の言葉として受け人れなければなりません。
四 聖書記者たちがそれぞれの書物を記した時に霊感を受けた聖書は、神の特別な摂理と保護によって、
あらゆる時代を通して純粋に保存されてきました。
ですから、今日、私たちが持っている聖書の主要なところは、全く誤りがありません。
五 聖書をどのように解釈するかというその基準は、聖書の中にあります。
それは「聖書解釈の原則」と呼ばれるべきもので、それに従って解釈しなければなりません。
聖書を解釈する時、神が私たちに与えられた啓示の意味を正しく私たちに教えてくださるのは聖霊であって、
その働きを解明と呼びます。聖霊の解明の働きこそ、聖書解釈の原則が正しく生かされるゆえんです。
ですから、私たちを教えてくださる聖霊に従わなければなりません(ヨハネ1 二・二七)。
聖書が現代において意味を持つ正しい読み方は、聖書の書かれた時代と場合の特殊性を無視し、
その中に出て来る事柄をただ模倣することによってではなく、
それぞれの特殊な出来事の中に原則として示されている神の御心を学ぶことによってなされます。

第二 神
一 天地には、唯一の生きている木当の神だけがおられます(申六・四、テサロ二ケ1  一・九)。
神は私たちの感覚で知られるようなお方ではなく、人格をもつた霊であって、その存在におい
 ても、知恵においても、力においても、聖においても、義においても、真実においても、愛に
 おいても、恵みにおいても、あわれみにおいても、すべて絶対であり、完全であり、往限であ
 り、永遠であり、不滅であり、また不変なのです(ヨハネ四・二四、エレミヤ二三・二四、詩
 一四セ七・五、啓四・ハ、マルコ一O・一八、詩一一六,五、申七・九、出三,一四、詩九O・
 ニ、ヤコブ一・一七)。また、神は自存のお方であり、自己充足のお方であって、被造物が仕
 えなければならないことはなく(初一七・二四1二五)、すべてのことを、ご自分の主権的な
 ご意志のままに行われます(エペソ一・一一)。
二 唯一の神には、三つの人格(三位)があります。それは、父と子と聖霊です(マタイ二八・
 一九、コリント2  一三・一三)。この三位の神は、その本質と何と永遠においては、全く等
 しく、唯一の神の本性の中で統一されています。これを三位一体と呼び、この三位一体の神
 は、神ご自身のうちにおいて、父と子と聖霊の聖い交わりを持っておられます。ですから、神
 は神だけで十分であり、完全です。
三 神は、永遠の昔に、その聖い御心に基づいて、天地の間に起るすべてのことを、主権者とし
 てあらかじめ定められました(エペソ一・一一てですから、世界が存在しているのは、この神の
聖定によります。(エペソ1・3-14)。神が聖定をされた究極的な目的は、
神の栄光が現されるためです(ローマ9:22-23)。
四 神は、聖定に基づいて、ご自分の栄光のために、ある者を救いに予定しておられます(初一
 三・四八、ローマ八・三O、エペソ一・四-五)。
五 神は、その御心に従って、ご自分の知恵と何と栄光を現すために、世界とその中にある一切
 のものを、無から創造されました(創一・一、コロサイ一・16)。
六 すべてのものの造り主であられる神は、ご自分の聖い目的のために、聖く、賢い摂理の働き
 により、御心に従って、全被造物を支配し、保持し、指導し、処置されます(ネヘミヤ九・
 六)この神の御業は、人の働きと矛盾することなく、すべてが神の摂理の働きによって、神
 の目的を達成するために向けられます(ローマ八・二八、ピリピニ・一三)。


 三  人  間
一 神はご自分のかたちにかたどって、人間を創造されました。神のかたちには、理性と道徳を
 わきまえ、宗教的存在である不滅の霊という広い意味のものと、真の知識と義と聖という狭い
 意味のものとの両方があります。また、人間を男と女として創造されました
(創1・26-27、エペソ四・二四、コロサイ三・一O)
そして、神は人間に、全被造物を支配する権限を与えられました(創一・二六)
二 最初の人間は、自分の自由意志により、神に対して罪を犯してしまいました。そのため、神
 の御前に立つことのできる正しさと、神との交わりから堕落してしまい、霊と体のあらゆる機
 能が罪のために歪められ、汚れてしまいました。つまり、狭い意味での神のかたちを失い、罪
 の中で霊的に死んでしまいました(創三・一-一三、エペソニ・一)。そして、すべての人は、
 この最初の人が罪を犯した時、彼と一緒に堕落してしまいました。ですから、生れながらにし
 て罪人です(ローマ五・一二、一四-一九)。そのため、神に対して罪責を負い、そのままで
 は滅びに至ります。
三 神は堕落した人間のために、恵みの契約を結ばれました。これは、イエス・キリストの十字
 架上での死に関するもので、私たちの罪をあがなってくださるという契約です(創三・一五な
 ど)。これは、神の永遠の御目の中にありました。そして、神はこのイエス・キリストによる
命と救いを無代価で与えてくださり、これを信仰によって受け入れるように求められます。
さらに、このキリストを信じることができるようにと、聖霊が働いてくださいます
(エペソ1・4、第一ペテロ1・19、第二テモテ1・9-10)。

 四  救い主イエス・キリスト
一 三位一体の神の第二人格であるキリストは、永遠の神でありながら、定められた時に人性を
とられました。これは、聖霊による処女降誕とぃう事実によって具体化されました(マタイ
 一・一八1二五)。ですから、イエス・キリストは完全な神であると共に、また完全な人間で
す。ィエス・キリストのこの神性と人性との二つの異なった性質は変化もせず、合成もせず、
混合もせず、分離もせず、分割もしなぃで、一つの人格の中におぃて結合されてぃます。です
 から、イエス・キりストは、神と人との間の唯一の神保者です(ヨハネ一・一、一四、ピリピ
 ニ・六-七、ガラテヤ四・四、第一テモテ 二・五)。
ニ キりストは、私たちのあがなぃ主として、へりくだられた時(受肉して人となられ、十字架
 上で死に、復活される前まで)と、高く上げられた時(復活、昇天、父なる神の右への着座)
 のこの二つの状態において、預言者と祭司と王の務めを成し遂げておられます(第一テモテ
 ニ・六、ピリピニ・六-九、初三・二三、ヘブル五:五-六、詩二・六)。
三 イエス・キリストは、その人性という面から見ると、罪を犯すことができたわけですが、
聖化される聖霊の働きによって、罪を犯されませんでした。
それは、神性が人性と不可分に結合していたからです。
このキリストの無罪性(神の律法を積極的に守られたという意味で、積極的服従と言います)は、
キリストが父なる神の御心に従順に従って十字架にかかられたこと(積極的服従に対して消極的服従と言います)と共に、
私たちを罪からあがなってくださいます(コリント2  五・二一、ピリピニ・六|八)。
四 イエス・キリストが私たちの罪をあがなってくださったのは、あの十字架上で死なれたという事実において表されており、
その意味は身代りのあがないです(コリント2  五・二一)。
五 イエス・キリストのあがないは、すべての人に対して十分な力を持っておりますが、選ばれた者、
つまり、それを受け入れた人にだけ有効になります(マタイ二O・二八、ヨハネ6章三七、三九)。
六 イエス,キりストは、十字架上で死なれた後、三日目に、私たちの救いを完成するために、
 死人の中から復活し、父である神の右に着座されました(コリントー 一五,四、ローマ四二五、初二・三三-三六)。

 五  聖霊
一 聖霊は、三位一体の神の第三人格で、救い主イエス・キリストが十字架上で成し遂げてくだ
 さったあがないの御業を、信じる者たちに適用して救ってくださいます。
二 聖霊の働きは、旧約時代には、ある特定の人々に限られており、しかも、それも一時的なも
 のでしかありませんでしたが(民一一・二五リ二六、士三・一O、一一・二九、サムエル1
 一0・一O、一一・六など)、新約時代には、だれにでも注がれるようになりました(ヨエル
 ニ・二八1二九、初二・四)。
三 聖霊降臨というペンテコステの時の出来事は、一度だけの歴史的事件ですが(初二・
 四)、あの時に与えられた聖霊の力は、今日でも同様に与えられるものです(初一・八)。
四 聖霊は、私たちがイエス・キリストを信じることができるように働き(コリントー 一二・
 三)、イエス・キリストを信じた時、御国を受げ継ぐことの保証として証印を与え(エペソ
 一・一三1一四)、キリストの体である教会の一員となるためにキリストにつくバフテスマを
 授けてくださいます(第一コリント 一二・一三、ローマ六・三1四)。また私たちのうちに宿
 り(コリントー 六・一九)、私たちが聖霊に満たされて、神に従うことができ、神が喜ばれ
 ることのみを喜ぶことができるように働いてくださいます(ローマ八・二六-二八、エペソ
 五・一八)。
五 聖霊はいつも神の御言葉である聖書の教えの中で、
また、聖書と矛盾することなく私たちの心に働き掛けてくださいます。

六 救い
一 救いは、普通、不幸とか悲惨と考えられているものの根本的な原因である罪、およぴその一
切の結果からの救出であり、これは神の純粋な恵みによるものであって、イエス・キりストの
十字架のあがないによって神が備えてくださったものを、私たちが信仰によって受け取る時に与え
えられます。私たちが信仰によって受けるというのは、聖霊が私たちのうちに働いて、そうさ
せてくださるということです(第一コリント 一二・三)。この救いには三つの面があります。
第一の面は出発点で、召し、新生、回心、義認という種々の事柄がそれです。しかし、これら
は、この第一の面の豊富な多様性を示すもので、それぞれに深い意味を持っている事柄です。
第二の面は、継続的な信仰生活、つまり聖化の面で、善い業などが含まれています。第三の面
 は完成点で、栄化と呼ばれるのがそれで、その時、私たちの体もあがなわれて、救いが完成し
 ます。永遠の命、真の自由、神の子とされることは、この三つの面に関係しており、罪の赦し
 は第一と第二の面に関係しております。
二 神は、あらかじめ救いに予定しておられた者を、その主権的な、自由な、また特別な恵みに
 よって、御旨の時に、御言葉と御霊によって、この世から召し出してくださいます(初一三・
 四八、ローマ八・三)神の召しによって召された者たちは、罪の中に霊的に死んでいた状
 態(アダムにある者)から、命が与えられて、イエス・キリストによる恵みの救い(キリスト
 にある者)に入れられます(エペソニ・一-五)ですから、心の中に働かれる聖霊の御業によっ
 て新生させられるわけです(ヨハネ一・一二-一三、三・五、テトス三・五)。この新生という
 のは、人間の霊的実体である心の性格が変るのです。そして、それは自覚以前のことです。ま
 た、これはキリストに結合すること(ローマ六・三1一一)でもありますから、キリストに結
 合させられた者(救われた者)は、キリストの持っておられる豊かな祝福にあずかることがで
 きます。
三 神がこの世から召し出してくださった人々は、聖霊の働きによって、新生させられたために、
 当然、自覚的な回心を経験するようになります。これは、生き方についての方向転換です(初
 九・一1一九)これは瞬間的に起りますが、これが瞬間的に自覚されるか、ある過程を経る
 かは、その人によって違います。しかし、これは唯一回だけ起るものです。新生というのは、
 同じ一つの事柄についての、主として神の側のことで、回心とは人間の側のことです。
四 神は、この世から召し出された人々を、自由に、裁き主の権能によって事と認めてくださ
 います。(ローマ三・二六)。それは、その人々の中に義を住人されることによって、このよ
 うに義と認められるのではなく、イエス・キリストの完全な義を私たちが信仰によって受ける
 時に(しかも、その信仰も私たちのものではなく、神が賜物として私たちに下さるものなのですが)、
私たちの人格を義と認めてくださいます(ローマ3・22)。
それは、聖霊がキリストとその御業を私たちに適用してくださるので、
私たちは信仰によって受けることができるわけです。
また、神は信仰によって義と認められた人々が、真に悔い改める時に、その罪を赦し続けてくださいます(1ヨハネ 一・九)。
五 神は、信仰によってキリストを受け人れる者に、永遠の命を与えてくださいます(ヨハネ三・
 一六、五・二四)
六 神は、義と認められたすべての人に、その独り子イエス・キリストにあって神の子としての
 身分を与えられます(ヨハネ一・一二、エペソ一・五)。こうして、神の子と呼ばれ、神の子
 としての霊を与えられ(ローマ6・一五)、大胆に恵みの御座に近づき(ローマハ・一五、ヘ
 ブル四・一六) 「天のお父様」と呼ぶことができるようにしてくださいます。そして決して
 捨てられることがなく(哀三・三一、ヘブル一三・五)、永遠の救いの相続人として(ローマ
 ハ・一七、第一ペテロ 一・四)、救いの完成の日のために、聖霊による証印を受け(エペソ四・
 三O)約束を受け継ぐ者となります(ヘブル六・一二)。
七 この世から召し出され、新生させられた人々は、その中に新しい心と霊を創造されている
ので(コリント2  五・一七、ガラテヤ六・一五、エペソニ・一O)、キリストの死と復活に
 基づき、御言葉と内住する聖霊によって、実質的に、その人格が聖化されます(ローマ六・五
 1六)そして、神のかたちに似せて全人格が新しくされ、新しい命が全人格を支配し、征服
 していくために、ますます罪に死に、義に生きることができるようになっていきます(ローマ
 六・一一)。もちろん、これは信仰によってなされます。この聖化は、地上の生活では未完成
 で(テサロ二ケ1  五・二三)、まだ残っている腐敗のため、霊と肉との葛藤があります(ガ
 ラテヤ五・一セ、エペソ六・一O、テモテー 六・一二)。けれどもこの葛藤は、究極的には
 御霊の力によって、新生した方の側が勝利を得(ローマ六・一四、ハ・三七)、聖徒たちは、
 恵みの中に成長し(ペテロ2  三・一八)、聖性を完成するに至ります(コリント2  七,
 一)。新生も、ギリストとの結合も、回心も、義認も、子とされることも、皆一回だけの経験
 ですが、聖化は継続的になされるものです。
八 救いを受けるために必要な器は信仰であり、これと表裏一体をなすものは悔い改めです(マ
 ルコ一・一五)、信仰は肯定的な面で、悔い改めはその否定的な面です。信仰は救い主を仰ぎ、
 悔い改めは自分のみじめさを見て、生き方の方向転換をいたします。この信仰も悔い改めも、
共にキリストのなされる御業です。ですから、神の賜物です(エペソニ・ハ、初五・三一)。
 そして信仰は、当然、善い業を生み出します(ガラテヤ五・二二ー二三、ヤコブニ・一八、二
 二)。
九 神の救いの恵みを日ごとに受け取るためには、神の御言葉である聖書を読み、祈りをささげ
 なければなりません。神は謙遜に神の御心を求めつつ聖書を読む者と、謙遜に神の御心を求め
 つつ神との交わりである祈りをささげる者に、ご自分の御心を示し、豊かな祝福を与えてくだ
 さいます(第一ペテロ二・ニ、ピリピ四・六ー七)。
十 神がこの世から召し出し、聖霊によってきよめてくださる者は、決して恵みの状態から落ち
 てしまうことがありません。一度救いにあずかった者は、たとい途中、一時的に信仰が弱めら
 れるようなことがあっても、最後まで信仰に堅く立ち、永遠に救われます(ヨハネ一O・二八
 -二九、ローマ一一・二九、ピリピ一・一六、テモテ2  一・一二)。
十一 終りの時に、信者の救いは完成し、体があがなわれて、栄化されます(1コリント 一・
 三O、ローマハ・三O、ピりピ三・二一)。
十二 救いにあずかった者は、救いの確信を持つことができます(第一 五・一三)。これ
は、神の子たちに与えられている御霊が、心の中であかししてくださることに基づくものです
(ローマ8・16)。しかし、その確信も、御霊を悲しませるような特別な罪に陥った時や、
神がご自分を恐れる者に対してさえも、御顔の光を隠してしまわれるような時には、
動揺させられることがありますが、この確かさは、
決して自分の不確かな信念に基づくものではないので、全く失われてしまうことはありません
(詩五一・一一-十二、一四、イザヤ五O・一O)。ですから、忍耐をもって主を待ち望むことができます。

第七 教会
一 教会はこの世から召し出されたすべての信者によって構成されるもので(1コリント 一・
二)。イエス・キリストの体になぞらえられます(エペソ一・二二、五・二三、コロサイ一・
二四)。教会のかしらはキリストですから、教会はキリストのご支配のもとに統御されていま
す(コロサイ一・一三、一八)。ですから、個々の信者は、皆直接かしらであるキリストにつ
ながっています(コロサイニ・一八-一九)。
二 教会は、またキリストの新婦になぞらえられ(コリント2  一一・ニ、エペソ五・二三-三
 二)、神の家族とも呼ばれます(エペソニ・一九)。教会はキリストがご自身をささげて、あが
 なわれたものですから、キりストの愛と保護があります(エペソ五・一二二ー二七)。そこでは、
 聖徒の交わりが行われます(初二・四二-四七、第1ハネ一・三)。キりストと教会は、愛に
 よって一つに結び合されているので、信者相互の関係もまた愛にほかなりません(ヨハネ一三・
 三四-三五、コロサイニ・二)。
三 教会は、キリストという土台の上に建て上げられる建物になぞらえられ、教会を建てられる
 のは、キリストご自身です(マタイ一六・一八)。信仰は愛によって働き、奉仕して教会を建
 て上げていきます(エペソ四・一三、一六)。
四 神の様々な知恵は、教会を通して現されます(工ペソ三・一O)。つまり、教会はキリスト
 をあかしするために、建てられたのであって、信者はお互いに補い合いながら、奉仕していき
 ます(工ペソ四・一-三、一一-一六)。
五 聖霊は、個々の信者をキリストと結び合せられます。これを、キリストにつくバプテスマと
 呼びます(ローマ六・三-四)。この時、それぞれの信者はキりストの体である唯一の教会の
一員となります。つまり、信者は救われて、キリストと結びつけられた時に、キリストの体の
  一部分となったわけです(ヨハネ一五・五-一O、ローマ六・三-五、第一コリント 一二・一
 二ー二七、エペソ四・四-六)。ですから、キリストの体の一部に加えられた者たちは、皆そ
 れぞれ異なった御霊の賜物を与えられており、だれ一人として不要な者はなく、だれ一人とし
 て、その人だけで全部の働きができるというような人もおりません(ローマ一二・四-八、1コ
 リント一二・四-三一、エペソ四・一一-十六)。キリストの体である教会は、御霊によっ
 てのみ一致しております(エペソ四・三)。
六 教会は、御霊の一致と、なすべきことの導きを、つねに折りによって求めなければなりません。
主は、信者が心を一つにして祈る祈り(御霊による信仰の祈り)に必ず応えてくださいます
(マタイ一八・一九、ヨハネ一四・一三-一四、初一・一四、四・二四、三一、一二・五、
 一二、二三・ニー三、一四・二三、一六・二五、二O・三六、二一・五、ローマ八・二六-二
 七、エペソ六・一八、ヤコブ一・六-七、ユダ二O)。
七 キリストの体である唯一の目に見えない霊的性格の教会は、歴史的、社会的な制約のもとに
 ある私たちにとっては、目に見える制度的な教会となって具体化されます。この両者は別々の
 ものではなく、一つの実体の二つの面です(エペソ四・四、ガラテヤ一・二参照)。
八 キリストは、教会に二つの礼典を与えられました。それは、洗礼(バプテスマ)と聖餐です。
 この礼典は、神の恵みを表す印で、信仰を持って受ける者のぅちに、神は豊かな祝福を与えら
 れます(ローマ四・一一)。
九 洗礼(バプテスマ)は、キリストによって制定された新約の礼典の一つで(マタイ二八・一
 九)、キリストと結ぴ合されたことを表しています(ローマ六・三1五)。この礼典は、それ
 にあずかる者の罪が洗いきよめられ、イエス・キリストと共に死に、また新しい命に生きたこ
 とを意味します(ローマ六・三-一一)。ですから、真にキりストと結び合されて、キリスト
 の体である教会の一員となった者は、洗礼(バプテスマ)を受けて、制度的な教会の一員とな
 るべきです(マタイ三・一五)。洗礼(バプテスマ)は、父と子と聖霊の三位一体の神のお名前により、
水を使って行われます(マタイ二八・一九、三,ニ八、初八・三八など)。
十 聖餐も、キリストによって制定された新約の礼典の一つです(マタイ二六・二六1二九、第
 一コりント1 一一・二二など)。これは、イエス,キリストの死による犠牲が信者に与える恵みで、
イエス・キリストと現に結ぴ合されているということ、つまり、イエス・キリストの交わ
 りにあずかっているということを表すものです。神が最後の日、天において私たちをこのよう
 に招いてくださっているという保証でもあります。ですから、不信者や故意に罪に陥っている
 者や戒規処分に付されている者を除き、すべて洗礼(バプテスマ)の礼典を受けているクリス
 チャンは、この礼典にあずかるべきです(1コリント 一一・二七-二九)。
十一 信者は聖書に基づいて教えられ、訓練されなければなりません(マタイ一一・二九、二八・
 二O、初二・四二など)。そのために、教会には牧師、役員が主によって立てられています
 (エペソ四・一一-十六)。教会は、その霊的健康保持のために、誤った教えが侵人すること
 を防ぎ、また、罪に陥った者を徴戒いたします(マタイ一八・一五-十七、コリント1 五・
 一-六、九-一三、テモテ1 五・一八-二O、テトス三・一Oなど)。
十二 教会には、二つの主要な任務が与えられています。内側においては、キリストの体である
 教会を建て上げるということであり、外側に向っては、福音を宜べ伝えるということです。
教会が建て上げられていくためには、礼拝、交わり、奉仕、学びが行われ、
福音が宣べ伝えられていくためには、あかしが行われなければなりません(初二・四二1四七)。

八 終末
一 人の肉体は、その死後ちりに帰り、朽ちてしまいます(創三・一九)。しかし、霊は朽ちる
 ことなく、これを授けられた神のもとへ、すぐ帰って行きます(伝一二・七)。
二 信者(救われた者)の霊は、死後すぐパラダイスに行き、イエス・キリストと共にあって
 (ルカ二三・四三、一六・二二、初七・五九、ビリピ一・二三)、自分の肉体の完全なあがない、
 つまり体の復活を待っています(ローマ八・二三)。不信者(救われていない者)の霊は、ハ
 デス(よみ)に人れられ、そこで苦しみながら、最後の裁きを待っています(ル力一六,二三
 ー二四、ペテロ2  二・九1一O)。肉体を離れた霊のためには、この二つの場しかありません。
三 イエス・キリストは、父なる神が定めておられる時に(父なる神以外のだれも知りません)、
 突如として栄光のうちに再び来られます(マタイ二四・三六-四四、二五・三一、マルコ一三・
 三二ー三七、ルカ一二・三五1四O、テサロ二ケ1  五・一て三、ペテロ2  三・一O)。そ
 の時、この世は終りになります。いつ主が来られるかということにっいては、私たちはだれも
 知りませんから、私たちはいつでも目を覚し、敬虔に生活し、キリストが再び来られる時のた
 めに用意をしていなければなりません(マタイ四・四二-五一、マルコ一三・三三ー三七、ロー
 マ一三・一一-一四、テサロ二ケ1  五・四1一一、ペテロ2  三・一01一四、第1ヨハネ二・二八)。
四 キりストが再び釆られる時には、キリストを信じて死んだ人々がまず復活させられ、生きて
 地上に残っている信者も、同時に朽ちない体に変えられます。これが信者の復活で、
その時キリストを迎えることになります(テサロ二ケ1  四・一四1一七、コリントュ 一五・五一1
 五七、ヨハネ五・二八|二九、ピリピ三・二0-二一)。
復活させられた体は、再び自分の霊と永遠に結び合され、キリストに似た者とされ、こうして救いほ完成します。
これを栄化と呼びます(ローマハ・三0、ピりピ三・二一、1ヨハネ三・二)。また、キリストと教会との
 完全な結合が行われ、神の国の輝かしい完成を見ます(啓二一・一1四)。
五 キリストは、再び来られると、すぐすべてのものを更新して(マタイ一九・二八、初三・二
 一)、不義な者たちは、裁かれるために復活させられます。これが不信者の復活です(啓二0 ・
 一三、ヨハネ五・二八1二九、初四・一五)。
六 神は信者、不信者、および世界を、それぞれキリストによって正しく裁かれます(初17・31)。
この裁きを行う権能は、父なる神から子なる神キリストに与えられています(ヨハネ
 五・二二、二七)。その時には、背信の天使だけでなく(1ペテロ 二・四、ユダ六)、地上に
 生活したキリスト以外のすべての人も、キリストの裁きの座の前に立たされ、自分の思いと言葉と行いに従って裁かれ、報いを受けます(伝一二・一四、マタィ一二・三六、ローマニ・五 1八、一上ハ、一四・一0、一二、
コリント工 三・一三1一五、コリント2  五・一0、啓二 二・一二)。
不信者は、この最後の裁きの結果、永遠に神から切り離され、滅びに人れられてしまいます
(マタイ二五・四一、四六、テサロ二ケ2  一・八1九、啓二0 ・一0、一二1一五、三一・八)。
七 神が最後の裁きを制定された目的は、選ばれた者たちが永遠に救われることによって神のあ
 われみが現され、また、邪悪で不従順な者が罰せられることによって神の義が現され、そうす
 ることによって、究極的に神の栄光が現されるためです(マタイ二五・三一、ローマ九・二三、
 テサロ二ケ2  一・七-十)
八 最後の裁きが終ると、新天新地が来て、すべては新しくなり、永遠に至ります(啓二一・一
 1五)。イエス・キリストを信じ、命を与えられた者は、すべてこの新天新地において、永遠に
神と共にあって、キリストの完全な幸福と憩いに入れられます
(イザヤ四九・十、ダニエル十二・3、マタイ二十五・二三、2テサロニケ 1・6-7
ヘブル四・九-十一、啓示二一・3-4)。


基本信条

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて 生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

ニカイア・コンスタンティノーポリス信条アタナシオス信条カルケドン信条(この3信条は『基督教』岡田稔師)。

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